神戸 孫文記念館(移情閣)


公益財団法人 孫中山記念館(孫文記念館・移情閣)は現存する国内最古のコンクリートブロックで明石大橋を背景にしたモダンな建物で、国と県の指定重要文化財指定されて居ます。

この移情閣は東西南北どちらから見ても三角形の壁が目に付き六角の建物と錯覚しますが八角形三階建ての建物です。六甲山、大阪湾、紀州、淡路島、瀬戸内などの異なった風景の趣を持つている事から移情閣(孫文記念館)と名つけられました。この移情閣は、神戸で活躍していた華僑の貿易商、呉錦堂が建てた別荘「松海別荘」の一部で1915年(大正4年)に建てられました。

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        移情閣と明石大橋

孫文(1866年11月12日〜1925年3月12日)広東省香山県の貧しい農家の二男として生まれ、中国の政治家、革命家、初代中華民国臨時大統領、中国国民党総裁で辛亥革命を起し「中国革命の父」と呼ばれている。
華僑、貿易商呉錦堂は孫文の政治活動を支援をし1913年(大正2年)に孫文は日本に亡命、神戸に上陸した時には、この移情閣へ招き歓迎会を開いたと云われています。

孫文記念館移情閣は1984年(昭和59年)、孫文に関わる図書や書を始め中国関係華僑、華文文学に関する図書、雑誌を多数収蔵し一般公開されています。

所在地  神戸市垂水区東舞子2051 舞子公園内
TEL  078−783−7172
アクセス JR「舞子」駅下車徒歩5分/山陽電車「舞子公園」駅下車とほ6分
入園料  大人300円  小・中学生150円
駐車場  200円/1時間
休 日  毎週月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始 12月29日から1月3日
時 間  10:00〜17:00

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日本三大神滝 布引の滝 平安時代の和歌の道


新幹線「新神戸駅」山側、生田川中流(布引渓流)に在する、神戸ウオーターの源泉のの一つ「日本の滝100選」にも選ばれています。

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 雄滝                   雌滝

『布引の滝』は、上から雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとたき)、皷滝(つづみたき)、雌滝(めんたき)の4つの滝の総称である。

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夫婦滝                 鼓滝と暖帯林

この布引の滝付近の山は低い木はネズミモチやアオキです、地面にはシダの仲間ホドバカワラビなどが生え、日本の暖帯林(照葉樹林)を代表する、人の手が入らない自然のままです。
 
布引の滝は、栃木県日光市の華厳の滝、和歌山県勝浦町の那智の滝と共に日本三大神滝の一つで雄滝から竜宮城につながると云う伝説も…。
 ・ 雄滝  高さ 43m 深さ6,6m
 ・ 夫婦滝 高さ  9m  
 ・ 鼓滝  高さ  8m
 ・ 雌滝  高さ 19m
この滝の元、布引ダムの貯水量は60万㎥で、昔から神戸港に接岸する外国船に赤道を通過時にも変質することがない良質の水として供給され、喜ばれて居ました。
布引の滝は歴史と文学を体感出来る身近な神戸のハイキングコースとなって居ます。

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煉瓦造りの砂子橋            生田川(布引)下流でぎんなんを洗う人

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〇 和歌の道
平安時代の歌集「伊勢物語」や「栄花物語」を始め、古くから貴族の歌の題として多くの和歌が詠まれています。紀貫之、在原業平、行平、藤原俊成、良征、良清、基隆、行能等の歌人の歌碑が数多くが雄滝との道沿いに点在しています。
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(史跡)五色塚古墳、国指定記念物


 五色塚古墳は(千壷古墳ともよばれ)4世紀後半に造られた兵庫県下最大の前方後円墳、全長194メートル、円墳の直径は125メートル、前方の幅は81メートルです。斜面の敷き詰められた葺石は223万個、前方の石は淡路島から運ばれてきた黒っぽい石、後方は白っぽい石です。

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古墳は3段に築かれて、下段は山を前方後円に造り残して、中段と上段には盛り土をして、下段の斜面には小さな葺き石、中段、上段の斜面には大きな石を葺き石しています。墳頂と2段テラスには、鰭(ひれ)付円筒埴輪・朝顔形埴輪を2,200本巡らせています




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立地は明石海峡大橋、そして海上を行き交う船を見下ろす絶景の場所にあります。そしてこの古墳は昭和40年(1965)より10年を歳月をかけ整備、往時の姿を取り戻しました。

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 五色塚古墳西側に隣接して円墳、直径67メートル、高さ9メートルの小壺墳が有ります。どちらが古いかは解ってません。

住  所  神戸市垂水区五色山4丁目
アクセス  JR・山陽電車 垂水駅下車 西へ徒歩10分
      山陽電鉄 霞が丘下車 東に 5分
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豪商 高田屋嘉兵衛 廻船業者


高田屋嘉兵衛 明和6年1月1日(1769、2、7)− 文政10年4月5日(1827、4、30)は淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)で農民の子として生まれました。

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18歳で廻船業者を志して兵庫に出る、27歳で樽廻船の水夫から船頭となり、寛政7年(1795)には、北風家の助けを得て庄内で1700石積の辰悦丸を建造、本格的に廻船、蝦夷地経業乗り出す。
享和元年(1801)国後航路の発見、択捉島開拓の功のより33歳で幕府より[蝦夷地常雇船頭]となり
財を築きアイヌなどの現地の人々の生活向上を図った。

神戸市兵庫区西出町1丁目に 高田屋嘉平衛本店の地 記念碑が有ります。

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かってこの地域には高田屋の本店が有り、蔵が並んで居たといわれます。だが本店が有った場所は古文書などの飼料が少なく推測するしか枚のが現状です。


小説、司馬遼太郎の「菜の花の沖」などにも破天荒な大きな男性の生涯が描かれています。


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湊川の合戦 楠正成像


楠正成騎馬像(湊川公園)

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御醍醐天皇の要請で参戦、楠木正成が会下山、新田義貞が和田岬に陣を張り、山陽道と瀬戸内海から攻めてくる足利軍を迎え撃ったが新田義貞が細川定禅の兵船の動きにつられて生田の森(現在の生田神社)に後退したため、孤立無援の戦いになりましたが、楠木正成は自分が犠牲になってでも総大将の新田義貞を生かそうと700騎で10万の足利軍を相手に6時間の間に16度の突撃を繰り返したと云われています。殉節地(湊川神社)では一族郎党73名が自決しました。
 
その潔い最後は、足利氏寄りの歴史書「梅松論」に誠に賢才武略の勇士たちで、敵も味方も惜しまない物はないと記してあります。
実際に合戦の後、尊氏は正成の首級を河内・観心寺へ送り届けて居ます。湊川の合戦から半年後、京都に足利幕府が誕生、室町時代の幕明けである。


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神戸、会下山(えげやま)公園「大楠公湊川陣之遺跡」


神戸、会下山(えげやま)公園頂上近くに「大楠公湊川陣之遺跡」の石塔が建つ。碑の文字は東条平八朗元帥の書であります。

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南北朝時代に後醍醐天皇について戦った楠木正成が「湊川の合戦」でこの会下山に陣を引き、戦いに敗れてこの地で自害しました。

武士が権力を持った時代、後醍醐天皇の招聘で不利を承知で戦いに参戦、忠誠を尽くして戦死した楠木正成は反逆者として悪者∴オいを永く受けて居ましたが、江戸時代になって水戸光圀が忠臣と楠木正成を評価し、明治天皇によって「湊川神社」が創設され神として「大楠公」と祀られ、現在でも「湊川神社」は楠公さんと呼ばれて神戸市民に親しまれています。

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この碑の辺りからは神戸の街が一望出来、陣を引くには絶好の場所と感じます。
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勝海舟寓居跡(旧神戸村庄屋 生島四朗太夫別邸)


 勝海舟寓居跡(旧神戸村庄屋、生島四朗太夫別邸)

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1863年(文久3年)神戸海軍操練所を開設した、勝海舟が一時宿として住まいした旧神戸村庄屋、生島四朗太夫別邸(神戸市兵庫区五宮町26)が門、庭園など今も当時のまま保存されています。残念ながら現在は個人所有のため内部に入ることはかないません。

 神戸村を代表する生島四朗太夫は屋号を松屋と称して酒造り、廻船業など諸国の産物を手広く商う神戸村を代表する名家で神戸海軍操練所の建設には神戸村大庄屋生島四朗太夫らが協力しました。

 神戸海軍操練所建設の建設に携わるために神戸に来た勝海舟と生島四朗太夫は偶然に路上で出会い意気投合したと云われています。(坂本竜馬も訪れて居ます。)

 田舎町の神戸を高く評価した勝海舟は生島四朗太夫に「土地を買って置け」とアドバイスをしたと云われています。生島は維新後、地価が上がり大儲けをしたと云われています。

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 この生島別邸の西側の小さな門が有り、元歴元年の五輪塔(平家の供養塔)と書いた看板が掛って居りましたが門内には入ることは出来ず、残念ながら如何な物かは判りませんでした。

 住 所  神戸市兵庫区五宮町26−9

 アクセス 三宮〜市バスF番系統「神戸駅」行き「平野」下車、
      祇園神社鳥居前の道路を東に50mほど

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神戸六宮神社八宮神社(生田裔神八社)


 山手幹線から南に入ってすぐの所に正面の鳥居が有ります。

       六宮神社 御祭神 天津彦命(あまつひこめのみこと)
                応神天皇(おうじんてんのう)
       八宮神社 御祭神 熊野杼樟日命(くまのくすひのもこと)
                素盞鳴尊(すさのうのみこと)
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  四宮神社の前を山手幹線沿いに西に抜けると、ホテルオークラなどを建てた大倉財閥の別荘う跡地が目に入って来ます。この大倉公園の南に六宮神社、八宮神社2社が鎮座しています。元々この2つの神社はべつ別の場所に立って居りましたが、明治に入り公共施設建設のため移転を余儀なくされ、今では々社殿に中役合祀されています。

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 〒650−0017
   神戸市中央区橘町」3−4−13

 神戸の史跡神社、生田裔八社社めぐりも終わって如何に自分の住まうところを知らなかったのか…、これからは少しずつ勉強をして、旧跡名所、神戸の名物、珍しきものを紹介してゆきたい。続きを読む
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神戸の七宮神社(生田裔神八社)


此の七宮も神功皇后が7番目に巡拝したと伝えられる神社。

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  御祭神が大巳貴命(おおなむじのみこと)、天児屋根命(あまのこやめのみこと)
創設時期は不明ですが平清盛とも関係の深い寺院です。残された記録から1000年近い歴史が推測されます。
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縁結び、家内安全、航海安全の神。
同じ神戸に住みながら六宮、七宮、8宮の存在を全く知らず…今回のお参りに付、在所を探し廻った。
 〒652−0831
 神戸市兵庫区七宮町2−3−21

アクセス
・JR「兵庫駅」下車、南東へ徒歩10分




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神戸、五宮神社(生田裔神八社)


(生田裔神八社) 五宮神社

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 バス道から民家に立ち並ぶ細い坂道を登りきると鳥居が現れた。
三韓遠征から凱旋帰国の途中、神功皇后が5番目に巡拝されたと云われている。御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)旧八部群平野村の鎮守社として人々に崇敬をあつめていました。
1872年(明治5)年に湊川神社が創建された際、湊川神社の氏子に指定されました。これは古くからの生田神社との深いつながりを地元、奥平野村の証や、年寄りなど代表者が連名で嘆願書を出し認められました.

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 有馬街道の東の山裾にある五宮神社は昔北へ抜ける動脈の一本の役割をはたした。真北にある鍋蓋山をとおり再度山大龍寺への参拝、有馬温泉へ向かう人々で大変賑わい、そうゆう人達のため境内に茶店が設けられて居ました。

花隈の花街が盛んであった頃には四宮神社と並んで芸妓たちの厚い崇敬を受け、当時奉納されたとゆう絵馬も若松稲荷社に残されています。

 この神社は祇園神社の兼務神社です。お問い合わせは祇園神社TEL078−361−3450

アクセス
 〒652−0007
 神戸市兵庫区五宮町22−10
 神戸市バス EFバン系統「五宮」下車北(山側)へ徒歩5分

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